大阪城の遺構を歩く(2)
(前回の続き)
大阪城の空堀跡に沿って東西に伸びている「からほり商店街」を東に向かって歩きます。
「からほり商店街」は空堀そのもののルートよりは、少し北側を通っているものと思われます。
というのは、空堀商店街の北側も南側も坂道になっていて、堀の底というよりも、尾根道を通っているような地形になっているからです。
もっとも、この坂道というのは、大阪城を作るときに、瓦を焼くのに使われた大量の土を掘削した跡がこの辺りにあったとも言われており、人工的な地形も交じっているからさらに複雑です。
しばらく進むと、下り坂の傾斜があり、北側に小さなグラウンドのある公園、清水谷公園に出ます。この公園の北側に数メートルの石垣のような段差があります。
この段差にある石垣は、そのまま空堀のあと、という訳ではないと思いますが、真田丸のすぐ横に位置し、戦略上、重要な位置にあり、冬の陣で勇猛果敢な戦いぶりを示した木村重成が守った場所と言われています。
この道は真田丸の跡と言われている真田山の丘と清水谷公園のある丘の間を通っている窪地になっていて、これが空堀の跡というのが自然な考え方ではないかと思います。
空堀のあとと思われる道を道なりに進んでいくと、下り坂になり少し大きな通りに出ます。長堀通りです。
通りの北側には、おそろしく急な上り坂、そのまま、大阪城の外堀に至る台地に続く段差になっています。
後で調べてみると、この長堀通りは、長堀川という運河の跡にあたるそうで、有名な心斎橋はこの川に架かっていた橋とのことです。
空堀と長堀川の関係はいまひとつよく判らないのですが、長堀川の掘削は1625年ということなので、この辺りは空堀の一部を利用して長堀川が掘削されたみたいです。
真田丸の方向からそれてしまったことに気づき、Googleマップで軌道修正します。
長堀通りを南に横切ると、再び上り坂、真田丸があったと言われる、真田山に上がっていきます。
この辺りになってくると、私と同じように、真田丸目当てに歩いている人たちを見かけるようになります。
坂を上りきると、明星学園高校のグランドがあります。この辺り一帯の丘が真田丸のあった場所と言われていますので、歩いてみて、大阪城から孤立した台地のうえに立っていた出丸、前線基地ということが良く判ったような気になりました。
明星学園高校の壁にはこんな壁画があったりします。
真田信繁(幸村)の墓がある心眼寺は、けっこうな人がいました。門扉に六文銭のあるお寺です。
幸村の銅像と、大阪城まで続くと言われる抜け穴がある三光神社は、有名な観光スポットになっていました。
お守りを買い求める人の列に並び、私も「勝」の文字が刻まれたものを買いました。
この後、長堀通まで戻り、地下鉄に乗って、大阪城公園の北側にある駅から天守閣まで歩いたものの、年末ということもあり、天守閣には上がれませんでした。それにしても、大阪城の外国人比率には驚きます。日本人より多いかもしれない。^^;
タモリではないが、高低差を足で感じながら、歴史を感じながら歩く旅、いや散歩もなかなか面白いものです。
大阪城の遺構を歩く(1)
久々の書き込みです。何か月ぶりのことでしょうか。
夏に起こしたもらい事故以来、ほとんど自転車には乗れず、せっかくの週末も出かけずじまいのことが多くなってしまったこともあり、ブログを書く気にもなかなかなれず、書き込みが止まっていました。
おまけに12月に入った頃から、原因不明の頭痛が続き、まったく2016年後半は酷い1年に終わりました。
その1年の締めくくりに、ほぼ年末恒例になっている関西方面への小旅行に出かけました。
大河ドラマ「真田丸」の影響で、その遺構が見たくなり、行先は大阪となりました。
今回の起点は、近鉄上本町駅。初めて下車する駅です。大阪というと、平坦な町、というイメージを勝手に持っていたのですが、「真田丸」が作られた目的を知り、そうではないということを知りました。ネット上に転がっていたデジタル標高図です。
つまり、大阪は上町台地という南北に延びる半島状の台地の両側に広がった町ということです。縄文時代のころは、上町台地以外は完全に海の上で、その後も、大雨が降れば水浸しになる湿地帯でした。難波とか浪速とかの地名が残っているのはそのためだったんですね。
半島の北の先っぽにあるのが大阪城になります。北側は、大川(旧淀川)という天然の要害、東西の両側は湿地帯が広がっていて攻め込みにくく、唯一陸地が続いている南側が入口ということになります。
この場所はかつては、信長を苦しめ、最後まで落とせなかった石山本願寺のあった場所でもありました。信長が攻めあぐねた場所を、それを引き継いだ秀吉は、守るための防御に知恵を絞ることになります。
城の南側に巨大な空堀を掘ったのもそのためであり、また、さらにその城を守るために、知恵を絞った真田幸村が編み出したのが、集約して入口を狭くして、効率的に敵を迎え撃つために作った砦が「真田丸」ということになります。
今回の小旅行は、その「真田丸」跡を訪ねるのと、南側の防壁としてその前から存在していた南惣構堀(通称「空堀」)跡をめぐるというものになりました。コースを決めたのはその前ですが、少し前にNHKで放送されていたブラタモリで紹介されていた場所と同じような場所になってしまいました。
井戸のある広場。文字通り、大阪のおばちゃんが井戸端会議中でした。
空堀周辺は東西だけではなく南北にも起伏があり、非常に複雑な地形となっています。実際に歩いてみて、地形がはっきりとわからないというのが本音のところです。
主に商店街の南側には、こんな急な坂道が細い入り組んだ路地に続いています。
空堀のあと、ということは無いかもしれませんが、商店街の裏側がこんな風になっている箇所もあります。
この辺りは、空堀の跡の他に、地形の窪み、それから、大阪城の瓦を焼くために土を掘った後の窪みがあったとも言われ、その境目がはっきりしていないようです。
坂道と段差にばかり気に取られて、商店街の写真を写すのをすっかり忘れていました。古い建物がさほど残っている訳ではありませんが、下町の活気ある、なかなかいい感じのアーケードでした。何よりも、変わっていたのは、アーケードの商店街が坂道の中を延びているという風景でした。私の記憶の中では見たことがありません。
このあと、商店街を東の方向に進んでいくと、真田丸のあったといわれる場所に出ました。
長くなってきましたので、次回に続きます。
猛暑の松阪の町を往く
事故で傷めた脚は、普段の生活には何も支障は無いのだが、さすがにロードバイクで負荷をかけるのは不安がある。
夏の間は止めにしようと思っているのだが、病院で、あまり使わないのも筋肉が固まってしまうのは良くない、と言われたので、試しに30分ほど歩いてみたら、妙な違和感が残った。単に運動不足なのかもしれないが、当たった部分の痛みがなかなか治りそうで治らない。
ちょうど同じタイミングで、カミさんも足の指を痛めてまともに歩けない状態だったのが、やっと歩ける状態になってきて、こちらもリハビリで動かさないと、と言われている。
某私鉄の株主優待券の使用期限がぎりぎりになった日、適度な散歩が出来る場所に出掛けることにした。
随分と昔に会社の行楽で出掛けて、高級店ですき焼きを食べた記憶がある。とても自腹で出して食べるような金額ではないので、それきりいったことも無い。
松阪は、それ以外にも、商人の町、城下町としても知られている。
一度見てみたかった、城下にある「御城番屋敷」にいくことにした。
駅から歩いて15分、とあったが、駅前にコミュニティバスが出ていたので、短い距離だったが無理せず乗ることにした。
目的の場所は松阪城址のすぐ下に直ぐに見つかった。
端正に手入れされた生垣に数件の平屋建ての民家が並んでいる。
以前に鹿児島の知覧で見た武家屋敷跡と似た感じである。あちらのほうがずっと規模は大きいのだが、こちらは、長屋になっていて、文字通り御城の番をする下級武士が集まって住んでいる集合住宅であることが珍しいと言える。
しかも、入口の一軒は資料館として開放されているが、その他の家は民家として今も普通に一般の方が住まわれているのには驚く。
訪れた日は、燦燦と陽の照りつける暑い日だったせいもあり、観光客もほとんど歩いていない。静かなタイムスリップしたような空間だ。
資料館に入ると、二間しかない狭い間取りで、いかにも質素、堅実な暮らしぶりが伺える。
古いミシンが置いてあって、ちょっと変な感じはしたが、江戸時代というよりもっと後の感じの生活感がある。
縁側に座っていると、暑い中にもひとひらの風が通り、遠い昔に田舎の親戚のうちに遊びに行った時のことを想い出した。
松阪城址は、天守閣はなく、城跡が公園になっている場所で、地元出身の有名な学者である本居頼長の記念館がある。残念ながらこちらは休館中だった。何をした人と聞かれても答えに窮してしまい、教科書で習った古事記の人とまでしか答えられない。
昼近くなってきたので、駅の方向に戻りつつ、食事処を探す。
名前だけは聞いたことのある老舗の「牛銀本店」はけっこうなお値段なので、その隣にある「洋食屋牛銀」へ。こちらは多少リーズナブルな値段で食事が出来る。「本店」の待たずに入れるのだが、「洋食屋」のほうは30分ほど待ってやっと食事にありつけた。
写真を撮り忘れたが、ハンバーグ定食で1700円。まあまあのお味だった。ちなみに「本店」で座敷に上がると桁が1つ違ってくる。
それにしても暑い。本格的な夏の暑さが来たという感じ。
「参宮道」と書かれて、町並み整備されている道をそぞろ歩き、「松阪商人の館」というのに入ってみた。
木綿問屋を営んでいた豪商の一つ、小津家の屋敷を開放したものとのこと。行けなかったが、観光案内に小津安二郎青春館というのがあったことを思い出し、尋ねてみたところ、直系ではないが縁戚関係にあるとのことだった。(本居頼長も小津家と関わりがあるらしい)
あまり松阪商人という言葉はピンとこなかったのだが、三井家が松阪がルーツだったこと位は知っていた。近江商人に負けず劣らず、松阪を初めとする伊勢商人も随分と羽振りを利かせていたらしい。
「近江泥棒伊勢乞食」という言葉があるが、近江の人の狡猾さに比べて伊勢の人は人は良くて騙されやすいという意味だと思っていたが、調べてみるとそうではなく、乞食のようにお金に細かく倹約して財を成した、という一種の妬みから付けられた言葉らしい。
あるいは、乞食のように頭を下げ腰を低くして商談をまとめた、という商売のやり方から、という説もあるそうだ。
勤勉でこつこつと質素倹約して、決してエラそうな振る舞いをせずに人に頭を下げ、その結果財を成した、という凡人にはまねの出来ない成功者の生き方には違いない。
その後、バスに乗ろうと思って歩いているうちに、駅に着いてしまった。
古そうな城下町なので、他にも見るところはあるかもしれないが、これ以上歩くと、体に支障が出てきそうなので、引き揚げることにした。
災いは忘れた頃に...
ブログの更新がここのところ、滞っていた。
ブログの更新もメタボ対策のための週末ライドも、三日坊主の自分にしてはよく続けてきたものだと思うが、そろそろ書こうと思っていた矢先のつい最近の出来事だった。
会社からの帰り道、いつものようにママチャリに乗って、アーケードの商店街を通っていた時のことだった。
その日は、たまたま夕食用に持ち帰り弁当を買って、前カゴに載せた状態で走っていた。道路工事のため、道路中央の路面がボコボコになっていたので、振動をさけるため、道路の左端をスピードも上げずに走っていた。
その時、道路沿いの駐車場からバックでクルマがいきなり出てきた。
通り過ぎようとした私は、左方向からバックしてくるクルマに当てられて転倒。
何がどうなったのか判らないまま、どうやって手を付いたのか、どの方向に転んだのかまったく覚えていないが、倒れた自転車の下敷きにはならず、自転車の前方に身をかわして、地面に手をついて、それからどのように倒れたのか、頭の中が空白になっている。
頭を打った覚えもなく、不思議に手足にも外傷は全くないのだが、左の腿の付け根がしばらく立てないほど痛かった。
どうやら、自転車のハンドルで強打したような感じである。
「なにやってんだ、この野郎」、3年前も同じような台詞を口にした記憶がある。
ベンツに乗った若者が、クルマから下りてきて、侘びの言葉を入れてきた。
幸い、立ち上がることもでき、その時は大したことはないと思ったので、警察にも届けず、念のため、名刺を受け取って別れた。
万が一、偽の名刺でも契約駐車場で、車種も判っているので、なんとかなると思ったからだ。
翌日、その日はたまたま所用があって休暇の日だったのだが、なんとか歩きはできるものの、痛みが酷くなってきたので、用事を済ませたあと、整形外科で診察して貰った。
レントゲン撮影の結果、幸い、骨には異常はなく、股関節の可動域も異常なしということだった。
警察には届けてないと言うと、直ぐにでも届けたほうがいい、後になって異常が出ても、事故証明をしていないと、何も保証して貰えないから困るよ、と言われて不安になった。
おまけに交通事故のため、通常の保険証は使えないので、実費を請求され、手持ちの現金で払えなかった。
それから、警察に電話を入れ、直後でなくて事故受付は可能かと聞いたところ、加害者と一緒に来てくれと言われたが、加害者がどうしても今日は無理と言われたので、自分ひとりで警察に出向いた。
事故の事情徴収をされ、自宅まで来て自転車の壊れ具合を確認、写真撮影をしたうえで、事故として受理された。
後日、医師の診断書を持って警察に提出し、数日後に事故扱いで保険会社からの連絡を受け、保険扱いで診療してもらえることになった。
アーケードの商店街を左側通行で走っていて、相手はクルマなので、100%先方の責任になるとは思うが、自分が痛い目にあってはかなわない。
事故後、10日以上経過しているが、まだ、痛みは残っており、自転車のスポーツ走行には特に負担の掛かる場所なので、しばらくはお預け状態になりそうだ。
2度あることは3度ある、というし、3度目の正直という言葉もあるので、今度はただ事では済まない事故になりそうな予感がする。
家人からも職場でも、もう自転車は止めたら、と言う言葉を受けたが、懲りずに乗り続けることだろう。
痛い目に遭うのは自分なので、細心の注意を払いたい。
ポケモンGoの国内配信で、クルマや自転車を運転しながらスマホを操作する若者が増えてきそうなので、特に注意が必要になってくることだろう。大変な事故が起きなければよいが。
教訓:
事故を起こしたら、加害者であっても、被害者であっても、その場で警察に届けましょう。これは、事故の当事者の義務です。
皆さんもどうか事故にはお気をつけ下さい。クルマはどんな動きをするのか判りません。
また財布が無い.....
このところ、ブログの更新から遠ざかってしまっている。
このところ、年中行事になっている自転車での怪我というわけでなく、心のゆとりが無かっただけのことだ。
胸のあたりに今まで感じたことの無い妙な違和感があり、早々に病院に行ったら胃カメラを飲むことになったのだが、結果なんともないと市販薬のような成分の胃薬を処方されて帰ってきた。
自転車に乗るには絶好のシーズン、で頭を空っぽにして走りたいところなのだが、なにかと週末に用事があったりして思うに任せない。ようやく、この2週ほど走ることが出来た。やっぱ風を切って走れる自転車はいいなあ。
走るルートは決まったパターンになっている。
この日のコースは、一昨年、路肩で肩をぶつけて転倒した鬼門のルートである。
そんなことはすっかり忘れており、少し早めに家を出て、通称岐阜街道を岐阜方面に走って、約1時間、木曽川に出ると、笠松湊公園のベンチに座って、木曽川を眺めながら小休止するのも何度かのお決まりのパターンである。
そのまま、岐阜市内を経て、川原町の古い町並みを通って長良川へ出る、というのもいつものコースである。
そこで、乾いた喉を潤そうと、ハンドルに括り付けてあるバッグの中にある財布をまさぐった時、はたと気づいた。
そこにあるべき財布が無い。
バッグの口が開いたままになっているので、落としたのか、もしくは、1回だけ停止して休憩した笠松湊公園で置き忘れたのか、よく判らない。
またやってしまった。あの時は、車の中に置き忘れだったのだが、今回は間違いなく無くしてしまっている。
この日は気温が上がりつつあり、水分が補給できないのが辛い。ペットボトルの中に入った3分の1位の水分が頼りだった。
残念ながら、岐阜市内でお金を借りる充ても無く、まだ、午前中だったので、休憩もそこそこに来た道を引き返す。
途中にあった交番に念のため、財布を落としたことを届け出る。
30年位前、一度財布を落としたことがあり、たまたま警察の人が見つけて拾ってくれて手元に戻ってきた記憶が過ぎったからだ。
現金が幾ら、何が入っていたかを正確に思い出せないが、少なくてもクレカやサラ金でお金が借りられそうなものは入っていないはずだ。でも何でいつも使う財布なんて持ってきたんだろうと悔やむ。
念のため、休憩したベンチも行って見るが、当然ながらある筈も無い。
結局、70キロほどピストンで走って昼過ぎに自宅に戻る。
自分の不注意とはいえ、疲れだけがどっと残った休日だった。
学習能力の無さと注意力散漫さに呆然とするほかない。
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2日後、ケータイに通常見慣れない市外局番の電話が入った。
なんと、落とした財布が届けられた、との連絡だった。
通っていない街であるが、おそらく地域を管轄している警察なんだろう。
財布の形と、中に入っているもの2、3点ほどが自己申告と合致したので、自分のものと確認できた。
現金の金額は自分の思っていたより少なかったが、これは間違いなく自分の記憶違いだろう。
それにしてもよく戻ってきたものだ。
親切な方もまだまだ居られるものだと感謝のほか有りません。
何処のどなたかはまだ存じ上げておりませんが、有難うございました。m(_ _;)m
ブルーだった気分が少し和らいだ。
問題は平日の夕方までの時間に、岐阜のクルマでしかいけない場所にいつ取りに行くか、である。
サクラ散る木曽川を往く
この週末は良い天気に恵まれ、ロードにまたがって走りに出た。
別にサクラを見ようと思った訳ではないが、走っているうちに、まだまだ場所によっては残っており、陽気に誘われて家族連れが多かった。
美濃路を北上して、いつものように木曽川を見て引き返して帰ろうと思ったのだが、時間も早かったので、木曽川の堤防道路をしばらく上流に向かって走ることにした。
この辺りの木曽川南岸は、サイクリングロードが整備されていて、多くのサイクリストが汗を流している。もうすっかり春の日差し。
春の風景。
138(いちのみや)タワー周辺の、いわゆる木曽川堤(きそがわつつみ)はサクラの名所として知られている。満開ならばなかなかの風景なんだろう。すっかり花が散って、サクラのじゅうたんが出来ていた。
これはこれで美しい。
遊歩道のマンホールまでこの通り。
この木曽川堤、もともと御囲堤(おかこいつつみ)と呼ばれており、秀吉の時代から、洪水に悩まされたこの地域を水害から守るために作られたらしい。徳川時代になってからは、御三家の尾張藩がその力関係から、対岸よりも高い堤を作ったとか。
何処にもありそうな話。
明治の時代になってから、サクラが植えられ、国の名勝、天然記念物になっているそうだ。
平坦でスピードが乗る道を走っていると、ついつい調子に乗って、木曽川を渡って、各務ヶ原のサクラの名所、新境川まで足を延ばそうと思ったが、下調べをしていなかったので、どの辺がポイントなのか判らない。自分の体力と相談して今度の機会にとっておくことにした。
自宅に着いたのは、昼過ぎ。先週の距離の約2倍だが、疲れは同じ位。
ロードバイクは貧脚の自分をも遠くまで連れて行ってくれる良く出来たマシンである。
本日の走行距離:70.9キロ